ソファーにどっかりと腰を下ろした詩織が、キッチンを振り仰ぐ。
「私にもコーヒー」
「自分で入れて」
素っ気無く答えて、本当に自分の分だけ用意する。
「ケチっ」
「ケチで結構」
コイツの言葉にいちいち耳を傾けていたら身が持たない。
完全無視で隣室へと移動する。キッチンからブツブツと唸り声が聞こえるが、扉を閉めてしまえば問題ない。
備え付けと言われたベッドに腰を下ろし、一息つく。
結局、山脇の ……瑠駆真の用意した部屋を使わせてもらうことになった。
断ることもできたのだが、詩織の耳に入ったのがマズかった。
「悪いわねぇ」
大して悪いとも思ってなさそうな甘えた声を思い出し、思わず口元を歪める。
あの女はこうやって、人の好意を食べ歩きしてきたのだ。そして、これからもそういう人生を歩いていくに違いない。
「ごめん」
部屋の鍵を美鶴に渡しながら、視線を落とす瑠駆真の姿が思い出される。
あの日、部屋を見せられた時の彼。何が彼をあのように変貌させたのか?
「よく考えればわかることなのに。むしろ迷惑なことだって……」
そうだ。あの、冷静沈着という言葉を具現化したような彼が、このような突拍子もないことをしてくるとは思えない。
ただ君の役に立ちたいと……
その想いだけが、彼にあんな行動をさせたのだろうか?
思わず瞳を閉じる。
美鶴は、正直まだ、彼の言葉を信用はしていない。
もちろん、聡の言葉も受け入れてはいない。
自分を想ってくれる人がこの世にいるとは、どうしても思えないでいる。
混濁する頭をふり、コーヒーを啜ったところに電話が鳴った。隣で取った母がしばらくキンキンとした声で対応し、たっぷり五分ほど話した後に入ってきた。
「霞流さん」
そう言って、コードレスをベッドに放り投げる。慌てて手を伸ばしている隙に母は扉を閉めてしまった。
「もしもし」
待たせては悪いと出した声が、少し上擦る。
「こんにちは」
ゆったりとした、いつもの声。
いつもの……… しばらくの間、毎日のように聞いていた声。
これからは、そうそうは聞くこともないだろう声。
「あのっ 何か忘れ物でもありましたか?」
霞流の家を出る際、何かあったら連絡をするようこちらの番号を知らせておいた。
「いえ、特にそのようなものはなかったようですよ。まぁ、また何か出てきたらお知らせしますよ」
「そ、そうですか」
ひょっとしたら母のド派手な下着でも忘れてきたのではないかとヒヤヒヤした胸を撫でおろす。
しかし、ではこの電話は?
受話器の向こうで察したのか、霞流は笑い声を含ませる。
「すみません。別に用というワケではないのですが、引越しは無事に済んだのかと思いましてね。やはり女性二人では難儀かと……」
「そ、そんなことありませんよ。持ち物なんて無いに等しいんですから。すみません。今から連絡しようと思ってたんですけど……」
重いから教科書ぐらいは運びましょうと言う彼の好意をなんとか丁重に断り、二人だけで引っ越した。
引越し業者を頼もうとまで申し出てくれたが、充分過ぎるほど厄介になった上に、そこまで世話にはなれない。詩織が勤める店の従業員の兄だという男性が運転してくれた軽トラに、すべて載せることができた。
せっかく手伝ってもらったのだからお茶でも出そうと思っていたのに「ほらほら、女二人の部屋に入り浸るなんて、マナー違反だぞ」なんて横暴な言葉と共に、詩織がさっさと追い出してしまった。
こんな女だから、父も逃げてしまったのだろうか?
「そうですか。ではまた何かありましたら、ご連絡ください。そうそう、駅舎へは、今まで通り行ってくださるのですよね?」
その問いに、今まで通り管理すると答えて電話を切った。
切って、ホッとした。
気を抜くと、朝日に揺れる彼の髪が目の前を流れる。
少し茶色い髪の毛が風に揺れる。そうして、背を向けていたのが肩越しに振り返る。色の白い、少し痩せた顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。
私…… 変だ。
手の中の受話器を弄びながらぼんやりと考え込んでいた為、着信音には心底驚かされた。
何も考えずに通話ボタンを押してしまい、押したからには対応せねばと耳に当てる。
「はい?」
「…… 美鶴?」
少し押し殺したような声に、一瞬言葉を失った。
「もしもし?」
「あっ もしもし」
「忙しかった?」
今日引っ越すことは、瑠駆真にも知らせてある。
彼にも聡にも手伝うと言われたが、断った。遠慮ではなく、本当に手伝ってもらうほどのことでもないのだ。
なにせ、家具家電は備え付け、カーテンから何まで準備され、聡ではないが本当にホテルのような造りになっている。
ちょっとお金を出せば、これほどまでに快適な空間を手に入れられるのかと、感心してしまった。
「忙しいなら、後にするけど」
「別に忙しくなんかないけど……」
「それなら、今ちょっといいかな?」
「え?」
「下にいるんだけど」
美鶴は思わず窓を見た。もちろん、彼の姿が見えるわけがない。ここは八階だ。
「少しでいいんだ」
優しいが懇願するような相手の言葉に、強く断ることができなかった。まず、断る理由がない。
「わかった」
あまり気は進まないが、そう言って電話を切る。
「誰?」
母親の質問を無視して部屋を出た。
まだ静けさに慣れない建物内を移動しマンションを出ると、入り口からやや離れたところで、瑠駆真がブロック塀にもたれていた。
「何?」
爽やかな水色のTシャツに細身のジーンズという出で立ち。何かを考え込んでいたのか、声をかけるまでこちらには気づかなかったようだ。
|